
弁護士コラム「ハンコとサイン」
2023.8
1 コロナ禍の社会では書類に押印を必要としない「脱ハンコ」が進みました。それまではハンコを押し忘れたら提出し直しだったのに…」と疑問をお感じになったかもしれません。しかし、実はほとんどの契約は、ハンコどころか契約書すらなくても有効に成立するのです(例外は保証契約)。契約書を作成するのは、契約自体を成立させるためではなく、どのような内容の契約が成立したのかを確認したり証明したりするためであると言えます。
2 ハンコも同様で、ハンコがなければ契約が成立しないということはありません。では、実際には契約書にハンコを押すよう求められることが多いのはなぜでしょうか。その答えには、「実印」(役所に登録をしている印影)という概念が関わってきます。
書類に実印が押されているとき、「何か特別な事情でもない限り本人が自らの意思で押したのだろう」(①)と考えるのが通常だと思います。100円ショップでも手に入るような名字だけの印鑑(認印)とは違って、実印を本人以外の人が持ち歩いていたり押印したりするとは考え難いからです。そして、本人の意思に基づく押印がなされていれば、「特別な事情がない限りその書類は真正に成立したものとして扱われる」(②)ことになります(法律用語では、①を一段目、②を二段目として、①②を合わせて「二段の推定」と言います)。
すなわち、書類に実印が押されていると、それは本人が自らの意思で押したのだろうと考えられることになり、他人が勝手に押した、騙されたり脅されたりしてやむを得ず押してしまったといった主張はしづらくなります。仮にそのような特別な事情があったとしても、その事情を証明できなければ本人が自らの意思で押したと考えられてしまうことになります。しかも、騙された、脅されたことの立証は、実はけっこう難しかったりもします(なお、認印であれば、本人以外の人でも容易に入手できるということもあり、「本人が自らの意思で押した」と扱われるとは限りません)。
3 日本のハンコに対し、欧米では筆記体ですらすらとサインをする場面が良く見られますが、本人のサインであることは「公証」という制度によって証明されているそうです。本人のサインであることを証明する資格のある人(公証人)の目の前で書類にサインをして、公証人から「たしかにあなたがサインした」(私が見ていたのだから間違いない)というお墨付きをもらうのです。一見とてもスマートに見えるサインも、実はかなり原始的とも言える制度によって支えられていると言えます。
なお、日本においても、本人のサインがあれば書類として有効になります。ただ、日本には「公証」のようにサインが本人のものであることを証明する制度がなく、どうしても明らかにしたい場合には筆跡鑑定などを利用せざるを得ません。しかし、それでも確実に証明できるとは限らず、それゆえに結局はハンコを求められる…ということになります。
4 ハンコとサイン、文化としてはまったく異なりますが、本人の意思に基づくことを証明する手段であること、それゆえに印鑑登録や公証といった慎重な(悪く言えば面倒くさい)手続をとるという発想は共通のようです。

